このように平造の寸延び脇差作品は、正秀の作にはごく僅かで珍しい。刃文も本工として類例少ない匂口の締まった中直刃を破錠なく焼いて冴えている。
次は、羽石光志の「土師部」(1955年)は、製作途中の埴輪が立ち並ぶなか、土師部が作業に従事している光景で、埴輪と人の形が折り重なるように配置され、活気が伝わる。目黒がちな土師部と埴輪は似ていて明るく愉しげだ。
羽石は1946年にGHQに武者絵を禁止されている。戦時中、忠臣を描いてきた羽石にとって、埴輪は新たな歴史画のモチーフであり、戦後の国家再建に邁進する名もなき民衆像だったのだろう。
そして、戦後の抽象画家・榎戸庄衛の「はにわ」(1962年)。榎戸はサンパウロ・ビエンナーレの参加者として選ばれるなど期待されていたものの、評論家からは“埴輪などに暗示される埋もれた歴史に逃避”といって批判を受けている。
しかし、1960年になると「縄文人」シリーズを手がけ、61年には「原始」シリーズでは具体的なモチーフを持たない抽象へと移行していく。
もう1点、馬淵聖の「土器と埴輪」(1959年)。
海を渡り欧米の文物を見聞する旅から帰って、改めて埴輪や土偶を再発見した画家たちがいる。西洋が原始美術を発見した過程をなぞるように、西洋合理主義文明の中に忘れられた存在を、コスモポリタンの目で新たに見直すというものだ。
西洋のモダンアートの延長線上に、自国の遺物を捉える。花田清輝は“インターナショナルな観点からナショナルなものを眺めようとする視野”と語る。
日本固有のものの中に世界性を探すという視線に、戦中のモダニズムたちの“前衛は日本にあった”という主張と地続きでもあった。
野間清六や松原岳南に写真を見せてもらい、異なる埴輪をモンタージュ的に組み合わせている。中島は黄土の厚塗り表現と明るさの両立に苦心したという。
同館の観覧者のざわめく声の中で製作された明るい埴輪たちは、戦後の同館の変容も映し出しているようだ。
また、同じく中島の「古代より(二)」(1952年)。