ミュージアム巡り 五大浮世絵師 北斎 仮名手本忠臣蔵 三段目

 続いて、「仮名手本忠臣蔵 三段目」(文化3年・1806、版元:鶴屋金助、堅大判錦絵)。

 赤穂事件を発端に人形浄瑠璃や歌舞伎に脚色された「仮名手本忠臣蔵」は、浮世絵にも数多く描かれた。北斎も数種の同作品名を残している。

 本シリーズは、文化3年4月より市村座での上演に際して制作され、物語の名場面を手前に描き、背景に西洋で遠近法を意識した画風を用いている。

 その図は、三段目・裏門の段で、主君の塩冶判官とともに登城した早野勘平が、場内の騒動を聞きつけ急いで裏紋に駆けつける。そこで、判官の刃傷事件を知り色に浸って主君の大事に居合わせなかった事を恥じて切腹しようとするも、妾に京山崎の実家に身を寄せるよう説得される。

 図はまさに、勘平の行く手を阻もうとする鷺坂伴内とその手下に応戦しているところ。勘平が投げつけた桶が伴内の頭に当たり割れる。遠方左には罪人用の網乗物で判官を護送する一行が見える。

ueno-mori(台東区上野公園1-2)

ミュージアム巡り 暮らしの中のお菓子 延喜式・大膳下

 昔のお菓子は、天皇や貴族、武家など上流階級の食事や神饌とされた食べ物で、時代の経過とともに点心や南蛮菓子などが取り入れられ、庶民にも口にできるようになった。

 江戸時代後期になると貿易の拠点・長崎の出島など限られたところで食べられていた洋菓子が、文明開化の明治期に各地に広まり、日本国内の郷土菓子文化に影響を与える。さらに製作工程の機械化により菓子の大量生産がスタートすると、より多くの人々がお菓子を味わう文化が普及する。

 そんな日本における菓子文化の移り変わりや、年中行事から祭礼の様子が描かれた浮世絵、菓子型下絵帳、菓子木型などから行事食として作られたものから季節の風物を表現したものまで多様化がみられた。

 江戸期の買い物案内所から明治期以降の菓子広告など、港区立郷土歴史館(MCLHM)で「暮らしの中のお菓子展」(2025/10/18〜12/14)が展示されていた。

 まずは「延喜式・巻三十三 大膳下」(享保8年・1723、藤原忠平ら編、延喜5年・905の原本の写し、東北大学附属図書館所蔵)で、律令の施行細則がまとめられた法典の内、朝廷で饗宴の食事や配膳担当する大膳識に関することが記されている。

 本書頁・造雑物法には、当時の甘味料である糖(飴)の製法が記され、

“糯米1石(180kg)と萌小麦(麦芽)2斗(36kg)で、糖3斗7升(66.6kg)が得られる”とのこと。

MCLHM(港区白金台4-6-2)

塩哲 Weekendの麺処巡り 番外編 生麺

 本日は、自宅からほど遠くないところにあるサッポロめんフーズ練馬本店の特売日。

 前回、中華麺とパスタの生麺を購入し自宅で頂いたら、これまた旨い。本日もいろんなタイプの麺を購入。なかでも目玉は、一反もめんといわれる“幅広麺”に目がいった。

ミュージアム巡り 五大浮世絵師 北斎 仁和嘉狂言 すずめおどり

 続いて、「仁和嘉狂言 五月の部 すずめおどり」(安永〜寛政初期・1778〜91頃、版元:蔦屋重三郎、堅中判錦絵)。

 吉原では毎年八朔から1ヶ月ほど芸者達による即興演芸が行われた。寛政3年には12ヶ月舞踊出し物が披露された。雀踊りは「北斎漫画」3編にも描かれて人気の踊りだったようで、奴姿で笠を被り三味線に合わせて雀を真似たような振り付けだった。

 本図では、桃色の花をあしらった笠をつけ、女芸者だてらに奴の装束が粋で艶っぽいし、前掛けの下帯に鈴がつけられ音も賑やかだったろう。

 この寛政3年といえば、北斎32歳で、蔦重に見いだされた歌麿が美人大首絵を世に送り出した頃。まだまだ駆け出しの北斎であるが、蔦重の勘にヒットしたのだろうか。

ueno-mori(台東区上野公園1-2)

ミュージアム巡り 五大浮世絵師 北斎 風流四季の月 なつ

 次は、「風流四季の月 なつ」(寛政3年・1791、版元不明、堅中判錦絵)。北斎は安永8年(1779)から寛政5年(1793)の約15年間、春朗の画号で美人画シリーズを手がけている。同作も4枚続のはずであるが、「はる」1図のみが確認されている。

 本図は、灯籠鬢を結い上げた美人、かたや洗い髪の美人が揃って涼を取るシーンだが、タイトルの“月”が意味しない。二人の視線は川面に映った月を眺めているのか。とても意味深な一図である。

ueno-mori(台東区上野公園1-2)