処どころに刃文の頭が地に煙り込んで映りに繋がるところは、本工の元の焼出しにうるみを見せる点などに水心子一門のカラーが見て取れる。
さらに江戸に出て水心子正秀の門に入り、後に使徒同様、山形藩主・秋元候に仕え水心子門下の逸材となる。入門の時期は明らかでないものの、23歳時の最初期の作刀に“庄司直胤 寛政十三年正月日”の銘があることから、20歳頃の寛政10年前後とされ、文化初年(1804)頃には独立したと推定。
さらに生涯を通じて各地で駐槌し、愛知、茨城、鳥羽、賀奈川、静岡、長野、三重、京都、大坂、岡山などで確認され、70歳を超えてから4年間に及ぶ長期工程もみえる。そこには材料の鉄研究等絶え間ない向上心を根底に、広い交流と人望、作品ヘの高評価が現れていると言える。
この脇差は、年紀こそないものの書体から文化元年(1804)頃と目されている。この年に直胤は神田に居を構え、約7年同地で作刀。“神田”を銘文中に入れた作は、現在本作以外には確認されていない。
作風は大互の目乱れで江戸時代前期の大坂新刀、津田越前守助広の濤瀾乱れを狙っており、師・正秀の影響が明らかな一口。