次は脇指・銘、「川部儀八郎藤原正秀(刻印)寛政十一年八月日 正宗作大進房彫圓」(製作年:1799年、長さ:56.4cm)。
本作は、鎌倉期の正宗作に施された相州彫りの名手・大進房の刀身彫刻のデザインに倣って、表裏に彫刻が再現されている。
また、作柄も相州伝とすべく迫力のある皆焼風の刃を焼き、茎尻も入山形に仕立てられている。本工は既に文化年間(1804〜1817)以降に古刀に魅せられて復古刀を多く製作したものの、本作はそれに先駆けた作品。
海を渡り欧米の文物を見聞する旅から帰って、改めて埴輪や土偶を再発見した画家たちがいる。西洋が原始美術を発見した過程をなぞるように、西洋合理主義文明の中に忘れられた存在を、コスモポリタンの目で新たに見直すというものだ。
西洋のモダンアートの延長線上に、自国の遺物を捉える。花田清輝は“インターナショナルな観点からナショナルなものを眺めようとする視野”と語る。
日本固有のものの中に世界性を探すという視線に、戦中のモダニズムたちの“前衛は日本にあった”という主張と地続きでもあった。
野間清六や松原岳南に写真を見せてもらい、異なる埴輪をモンタージュ的に組み合わせている。中島は黄土の厚塗り表現と明るさの両立に苦心したという。
同館の観覧者のざわめく声の中で製作された明るい埴輪たちは、戦後の同館の変容も映し出しているようだ。
また、同じく中島の「古代より(二)」(1952年)。
刀工銘ははじめ「宅英」、後に「英国」と名乗り、本格的な修行は明和8年(1771)に武蔵国八王子の下原吉英の門に学び、出羽に帰国後の安永3年(1774)に山形藩主・秋本家に召し抱えられる。この時、銘を「正秀」と改め、「水心子」の号は同時に用い、天明3年(1783)頃より江戸に定住して名工の末裔を訪ねて教えを請い、相州伝と備前伝を習得。
作刀機関は文政7年(1824)までの約50年に及び、前半期は江戸時代前期の「大坂新刀」を理想として津田越前守助広の濤瀾乱、あるいは井上真改を範とした直刃調刃文を焼き、まれに一竿子忠綱風作柄も残している。
後期の文化年間(1804〜)以降は「復古刀」論を唱え、焼刃が低めな小丁子を焼いた備前伝に終始、晩年の文政2年(1819)には「天秀」と改名。
さらに、その後半期には「剣工秘伝志」「刀剣実用論」「刀剣武用論」などを著作し、100名はくだらない数多くの門弟を育成。その教えの影響は、水心子の恩恵と功績により200年の時を経た今日まで及んでいる。
「新々刀」という新たな扉を開いた正秀は、文政8年(1825)9月27日、享年76歳で歿している。
続いて、刀銘「水心子正秀 出研閃々光芒如花 二腰両腕一割若瓜」(製作年:1789年頃、長さ:69.4cm)。
この刀の裏銘の意は“研ぎ出せば閃々たる光芒花のごとし、二腰両腕(試し斬りの際の身体の部位の名称)一割すること瓜のごとし”と読み下され、斬れ味とともに越前守助広の濤瀾乱れを狙って、その出来映えと完成度を誇り、正秀にとって会心の作を示している。
本作は寛政元年(1789)の頃の年紀と思われる。
佐藤は国立博物館で、藤本四八による埴輪群像の撮影に立ち会っており、報道カメラマンで美術品の撮影に不慣れだった藤本に撮影角度などを助言している。
このブロンズ像の、一重まぶたの小さな眼を作るのに苦労し、眼を穴にしたという。うつろな眼のイメージは埴輪の記憶が、あるいは古代オリエント彫刻の玉眼を失った眼のようにも想像できる。
そして、森山朝光の「陽に浴びて」(1958年、木製)で、動物埴輪を担いだ古代人の姿だ。
高村光雲の孫弟子の森山は、戦中に建国神話の神々など、時局を反映した作品を製作している。敗戦による歴史の喪失は、制作時のモチベーションの喪失を意味する。
墨田区横綱にある「刀剣博物館」(The Japanese Sword Museum)で「水心子正秀 没後二百年記念 江戸三作“正秀・直胤・清麿”」展(2025/3/8〜4/14&5/11)が開催されており、鑑賞した。
コチラは、安永年間(1772〜81)から幕末まで作刀されたものを「新々刀」と呼ばれ、その作刀の祖と定義されたのが水心子正秀。
正秀は、いわゆる“復古刀”論を提唱したことにより、日本各地から100名のものぼる門弟が集結し、指導書である「剣工秘伝志」や「刀剣実用論」などを著して多くの刀工に影響を及ぼしている。
2025年は正秀が歿して200年の節目となり、鍛刀界においては衰退期から幕末を迎え急激に需要が高まり、優れた刀匠が輩出されている。
なお、展示作品の中で、撮影禁止の刀はここに揚げていない。
まずは、刀銘「於武州出羽住人五郎正秀 安永六年八月日」(製作年:1777年、長さ:69.8cm、※重要刀剣)で、水心子正秀28歳の若打時の作で、本光現存作中、最も古い年紀。“於武州”の銘文から、この時すでに江戸で打っていることが判る。
作柄は、壮年期まで目指した大坂新刀、取り分け、助広の濤瀾乱れと判断され、この時点においてはまだ完成には至らず、初期において試行錯誤を経ていたことが感じられる。