ミュージアム巡り 水心子・江戸三作 正秀・文化八年

 

正秀・文化八年

 

 次は、脇差・銘「正秀(花押)(刻印)文化八年二月日」(製作年:1811年、長さ:38.9cm)。

 このように平造の寸延び脇差作品は、正秀の作にはごく僅かで珍しい。刃文も本工として類例少ない匂口の締まった中直刃を破錠なく焼いて冴えている。

 刀身を引き立てる文字彫りは、裏に“南無妙法蓮華経”と刻され、表に“八幡大菩薩”と法華経の守護神として日蓮宗では位置づけられ、彫物に同宗の信仰心が如実に表れている。

touken(墨田区横綱1-12-9)

ミュージアム巡り ハニワと土偶 孔版第83号

 

孔版第83号

 

 続いて、若山八十氏が編集・出版を手がけた「孔版」(1951年9月)の第83号には、女人埴輪の表紙が飾られた。

 埴輪の上に放射状の線をつなぎ合わせてトレースし、幾何学形態として捉えようとしている。これは、現代彫刻と縄文土器を並べて論じる、のちの岡本太郎の観点の先行例だろう。

 印刷業と孔版画家の双方で活躍した若山は、1950年代から60年代にかけて、埴輪をモチーフにした抽象的な作品を製作している。

ハニワ(1)

 次は、木版画家・斎藤清の「ハニワ(1)」(1952年、木版)。また、斎藤の「埴輪(婦人)」(1954年)で、女性二人が向き合った構図は、遺物の形態を観察・記録した学術的な考古学書を参照したもの。左が現代女性、右は埴輪巫女で、時空を超えて対話している。

埴輪(婦人)

 斎藤は朝日新聞社出版局員で雑誌や新聞のデザインに従事し、国立博物館ニュースの題字デザインを手がけている。

ミュージアム巡り 水心子・江戸三作 水心子正日出・文化六年

 

水心子正日出

 

 続いて、脇差・銘「水心子正日出(花押) 文化六年八月日 応瀧儀兵衛好以富士山之水淬刃」(製作年:1809年、長さ:51.4cm)。

 この脇差は、大互の目乱れが濤瀾調を呈しており、銘文から“富士山之水”を焼き入れの細に用いているのが判る。これはおそらく、注文主・瀧澤儀兵衛なる人物の意を汲んでのことであろうが、彫り物に「成田山」とあるとこから、新勝寺に信仰を持つ人物とされ、さらに当時の富士山信仰を窮える作として貴重。

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ミュージアム巡り ハニワと土偶 土師部

 

土師部

 

 次は、羽石光志の「土師部」(1955年)は、製作途中の埴輪が立ち並ぶなか、土師部が作業に従事している光景で、埴輪と人の形が折り重なるように配置され、活気が伝わる。目黒がちな土師部と埴輪は似ていて明るく愉しげだ。

 羽石は1946年にGHQに武者絵を禁止されている。戦時中、忠臣を描いてきた羽石にとって、埴輪は新たな歴史画のモチーフであり、戦後の国家再建に邁進する名もなき民衆像だったのだろう。

はにわ

 そして、戦後の抽象画家・榎戸庄衛の「はにわ」(1962年)。榎戸はサンパウロビエンナーレの参加者として選ばれるなど期待されていたものの、評論家からは“埴輪などに暗示される埋もれた歴史に逃避”といって批判を受けている。

 しかし、1960年になると「縄文人」シリーズを手がけ、61年には「原始」シリーズでは具体的なモチーフを持たない抽象へと移行していく。

土器と埴輪

 もう1点、馬淵聖の「土器と埴輪」(1959年)。

ミュージアム巡り 水心子・江戸三作 川部儀八郎藤原正秀

川部儀八郎藤原正秀

 次は脇指・銘、「川部儀八郎藤原正秀(刻印)寛政十一年八月日 正宗作大進房彫圓」(製作年:1799年、長さ:56.4cm)。

 本作は、鎌倉期の正宗作に施された相州彫りの名手・大進房の刀身彫刻のデザインに倣って、表裏に彫刻が再現されている。

 また、作柄も相州伝とすべく迫力のある皆焼風の刃を焼き、茎尻も入山形に仕立てられている。本工は既に文化年間(1804〜1817)以降に古刀に魅せられて復古刀を多く製作したものの、本作はそれに先駆けた作品。

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ミュージアム巡り ハニワと土偶 古代より(一)

 

古代より(一)

 

 海を渡り欧米の文物を見聞する旅から帰って、改めて埴輪や土偶を再発見した画家たちがいる。西洋が原始美術を発見した過程をなぞるように、西洋合理主義文明の中に忘れられた存在を、コスモポリタンの目で新たに見直すというものだ。

 西洋のモダンアートの延長線上に、自国の遺物を捉える。花田清輝は“インターナショナルな観点からナショナルなものを眺めようとする視野”と語る。

 国立博物館マチス展担当者であった嘉門安雄は、同僚の考古学者に王塚古墳の写真を見せられ、“どうだ、日本だってマチスがいるだろう”と教えられたという。

 日本固有のものの中に世界性を探すという視線に、戦中のモダニズムたちの“前衛は日本にあった”という主張と地続きでもあった。

 次は、中島清之の「古代より(一)」(11952年)で、勤務先の東京芸術大学岡本太郎良の対談を聞いて直ぐに東京国立博物館に通い、本作の製作を始めた。

 野間清六や松原岳南に写真を見せてもらい、異なる埴輪をモンタージュ的に組み合わせている。中島は黄土の厚塗り表現と明るさの両立に苦心したという。

 同館の観覧者のざわめく声の中で製作された明るい埴輪たちは、戦後の同館の変容も映し出しているようだ。

古代より(二)

 また、同じく中島の「古代より(二)」(1952年)。

ミュージアム巡り 水心子・江戸三作 水心子正秀・寛政九年

 

水心子正秀_寛政九年

 

 続いて、脇差「水心子正秀(花押)寛政九年八月日」(製作年:1797年、長さ:44.4cm)。

 元を直ぐに焼出し、のたれに互の目を交えて部分的に飛焼を表し、穏やかな焼刃スタイルで、この時期の作品に多く見られる濤瀾調の乱れに仕上げられている。

 匂に深く沸がよく付き、処どころに叢沸の付いた刃は総じて匂口が明るくさえ、地鉄は叩き詰めたように精緻で、鋼の製錬に通じた本工の技量が発揮された一口。

 正秀はこの翌年から、茎に刻印をするようになる。

touken(墨田区横綱1-12-9)