ミュージアム巡り 隅田川の名所 大和耕作絵抄

大和耕作絵抄

 明暦3年(1657)に明暦の大火と呼ばれる大火災が起こり、多くの江戸庶民が隅田川を越えることが出来ず逃げ遅れて犠牲となった。隅田川には千住大橋のほかに橋が架けられていなかったが、この火事を機に防火・防災を目的とした新たな橋が架けられた。

 諸説ある中、寛文年間(1661〜73)初め頃、川の西・吉川町と東・本所元町を繋ぐ橋が架けられ、武蔵国下総国の間の橋とあり「両国橋」と名付けられた。橋の両袂には火除地が設けられ西両国、東両国(向こう両国)と呼ばれ、仮掛けの見世物小屋や茶屋が建ち並ぶ盛り場となる。

 また、橋が完成したことにより本所や深川など隅田川下流東岸の再開発が進行し、付近一帯は家屋が密集する地域として発展していく。なお、隅田川下流東岸は17世紀後半に両国橋架橋後に武蔵国編入された説もある。

 これに対して「新編武蔵国風土記稿」はその説を踏まえて、すでに天正期の絵図においてもその地が武蔵国であったことが判る、としている。つまり、両国橋の名の由来が武蔵と下総の国境を意味するというのは俗説であり、それだけ人々の間に同下流の東岸が下総国というイメージが強かったと推測できる。

 さて、続いて「大和耕作絵抄」(絵師の作画期:貞享〜正徳年間・1684〜1716、石川流宣画、版元:井筒屋三右衛門、縦26.2×横16.3cm)で、春夏秋冬の農作業や行事などについて記した絵本。展示頁は5月中旬から8月下旬まで、日本橋木挽町から屋形船の貸し船が出ていたことが記されており、音曲を奏で上流まで遡る遊覧コースが紹介されている。

和国百女

 そして、「和国百女」(元禄元年・1695、菱川師宣画、版元:松会三四郎、縦23.3×横17.1cm)は、様々な立場の女性風俗を紹介した絵本。展示頁では、木挽町から隅田川まで船を出し、音曲を奏で涼む女性達の様子が描かれている。

 川遊びで描かれる大型船の名は“川一丸”と描かれるケースが多くある。絵の上の詞書には、船を上流に向かわせ木母寺まで行き、梅若丸の墓を詣でるコースが記されている。

tabashio(墨田区横川1-16-3)