源清麿は本名を山浦内蔵助環といい、文化10年(1813)に兄の真雄とともに信州上田藩工の河村寿隆の門に入って初銘“一貫斎正行”と名乗り、翌年17歳で作品が確認されている。天保5年(1834)に師・寿隆から贈られた“秀寿”銘を用いたものの、同年のみで再び“正行”に戻している。
翌年、江戸に出府して旗本で兵法家・窪田清音の元で学び、武器構(刀一口三両での販路)を設けてもらい、天保13年(1842)に長州藩主・毛利敬親に仕え藩政改革を行った村田清風に、同藩・武器製作技術の振興を図るため萩へ赴き、当地にて2年間作刀する。
弘化2年(1845)に再び江戸に戻り“四谷正宗”と称した鍛冶場を設け、“清麿”銘に改める。この折、恩人である清音のために生涯の傑作を残している。
嘉永7年(1854)11月14日、積年の深酒により健康を害し、悲観して自刀により42歳の生涯を閉じる。
同作は、兄・真雄との兄弟合作で清麿自身の最初期作で、ともに年齢を銘じた非常に資料性の高い一口。
作柄は因州浜部の流れを汲む師・河村寿隆さながらの出来を示し、真体の丁子乱れを焼いて破綻がない。さらに二筋樋を刻しており、山浦兄弟の強い想いが注ぎ込まれた両工にとっての記念碑的な一口。
