ミュージアム巡り 水心子・江戸三作 大慶直胤

 

大慶直胤

 

 次は、脇差・銘「大慶直胤 於東都神田作之」(製作年:1804年、長さ:46cm)。

 大慶直胤は、安永7年(1778)に出羽国山形二生まれ、本名を庄司(荘司)箕兵衛と称子、大慶と号する。文政4年(1821)頃に筑前大掾を受領し、嘉永元年(1848)に京に上り“美濃介”に転じる。

 さらに江戸に出て水心子正秀の門に入り、後に使徒同様、山形藩主・秋元候に仕え水心子門下の逸材となる。入門の時期は明らかでないものの、23歳時の最初期の作刀に“庄司直胤 寛政十三年正月日”の銘があることから、20歳頃の寛政10年前後とされ、文化初年(1804)頃には独立したと推定。

 その作風は五ヶ伝(大和・山城・備前・相州・美濃)を巧に熟し、高い美術性や備前伝と相州伝の相似から、同門下の筆頭格と評価されている。

 さらに生涯を通じて各地で駐槌し、愛知、茨城、鳥羽、賀奈川、静岡、長野、三重、京都、大坂、岡山などで確認され、70歳を超えてから4年間に及ぶ長期工程もみえる。そこには材料の鉄研究等絶え間ない向上心を根底に、広い交流と人望、作品ヘの高評価が現れていると言える。

 安政4年(1857)5月27日、79歳で殉死するまで半世紀以上の長い作刀期間を数え、その技量誉れ高く、正秀を凌駕した名声により、新々刀期の名工刀匠と呼ばれる。

 この脇差は、年紀こそないものの書体から文化元年(1804)頃と目されている。この年に直胤は神田に居を構え、約7年同地で作刀。“神田”を銘文中に入れた作は、現在本作以外には確認されていない。

 作風は大互の目乱れで江戸時代前期の大坂新刀、津田越前守助広の濤瀾乱れを狙っており、師・正秀の影響が明らかな一口。

touken(墨田区横綱1-12-9)