蔦重が初めて「吉原細見」の刊行に携わった時、その序文は平賀源内が寄せた。そして蔦重の独占出版による「吉原細見」に序文を書いたのは戯作者・朋誠堂喜三二。跋文は大田南畝、祝言狂歌は朱楽菅江が寄せて華やかだった。さらに、南畝、山東京伝へと当代随一の戯作者が序文を引き継いでいった。
蔦重と「吉原細見」は切っても切れない糸を感じさせる。
さらにここには、一本の根木から二股に成長した連理の樟があり、吾嬬権現に取材した浮世絵には連理の樟が多く描かれている。

続いて戯作者として活動した蔦重作品が並ぶ。
「本樹真猿浮気噺」(寛政2年・1790正月、版元:蔦屋重三郎、蔦唐丸“蔦屋重三郎”作、1冊・三巻合冊、墨摺小本、縦17.3×横12.6cm)と「真体開帳略縁起」(寛政9年・1797正月、版元:蔦屋重三郎、蔦唐丸“蔦屋重三郎”作、北尾重政画、1冊・三巻合冊、墨摺小本、縦17.3×横12.5cm)。
“恋川がむたい記、喜三二が見たい記、万象亭のいらい記、初中後の趣は一也、只未来の心いきをおしはかるのみ”とあり、
つまり、恋川春町の「無益委記」、朋誠堂喜三二の「長生見度記」、万象亭こと森万象の「従夫以来記」は未来の話であるとし、蔦重は今の人の心を測る作品を出そうとしたと推定される。
本の内容は主人公が一儲けしようと様々な商売をするが、突飛な仕事ばかりで事がうまくはかどらない話。一つが小松引きと鹿聞。

そして、「身体開帳略縁起」は、蔦重2作目として“蔦唐丸自作”と明記され、袴姿の蔦重が新年挨拶をしている。この年の5月に47歳で鬼籍に入っている。

寺島村の蓮華寺は向島百花園とは道を挟んで向かいに位置し、寺号では蓮花寺と表記されている。「葛西志」によると、まずは鎌倉に建立されたが弘安3年(1280)、この地に移転したとある。
次は、「向島弘法大師境内之図」(天保年間・1830〜44頃、歌川貞虎画、版元:江崎屋辰蔵、大判錦絵三枚続)で、それぞれ遊ぶ子供達のシーンであるが、弘法大師の自画像を本尊とした向島・蓮華寺が描かれている。
本堂手前に樹木で作った帆船似のものがあり、蓮華寺では奇樹珍花を披露していたという噂とも重なる。また画面左に“仙女香”と、当時浮世絵上によく描かれていた白粉の宣伝提灯が見られる。

続いて、「絵本江戸土産」八編(文久元年・1861、二代歌川広重画、版元:菊屋幸三郎、縦18.2×横12.3cm)で、枝先が扇のような末広松が描かれ、蓮華寺の奇樹珍花が植樹された中でもこの松が唯一とされている。また、図中に“弘法大師を安置す”とあり、本尊が弘法大師であることを示している。

そして同じく「絵本江戸土産」八編(文久元年・1861、二代歌川広重画、版元:菊屋幸三郎、縦18.2×横12.3cm)で、庭が著名な蓮華寺が春から秋にかけて訪れる方も多かったと、画中上に“林泉殊に勝れたるにより春秋の間都下の騒人競ひてここに聚り”とある。

次は、「金金先生栄花夢」(安永4年・1775正月、版元:鱗形屋孫兵衛、恋川春町作&画、2冊、墨摺中本、縦17.7×横12.7cm)、「金金先生栄花夢」(寛政6年・1794・再版、版元:蔦屋重三郎、恋川春町作&画、2冊、墨摺中本、縦17.4×横12.7cm)、「金々先生造化夢」(寛政6年・1794正月、版元:蔦屋重三郎、山東京伝作、北尾重政画、1冊、墨摺中本、縦18.7×横12.7cm)。金金先生とは“金あるもの”のこと。

栄花夢は、主人公・金村屋金兵衛が江戸に出てきて目黒不動の門前にある栗餅屋で居眠りをし夢を見る。吉原や深川で放蕩三昧のあげく、家を追い出されるところで目が覚め、“浮世は夢のごとし”と悟る。本作はこれまでの赤本・青本・黒本と一線を画し、黄表紙の初作を飾る。

また、造花夢は栄花夢の後日談。主人公が茶漬けを食べようと茶を煎じながら見た夢の話。生きる上で多くの人の苦労シーンをみて悟り、心を改めて大富豪になるというストーリー。


柳島村の十間川と北十間川の交差する所に法性寺という日蓮宗寺院がある。この寺院の本尊は妙見大菩薩で、特に江戸時代では霊験あらたかであると参詣者が絶えず、中でも葛飾北斎が深く信仰していたことでも知られている。
続いて、「柳島妙見堂」(天保年間・1830〜44頃、歌川広重画、版元:佐野屋喜兵衛、大判錦絵横)で、北十間川を手前に法性寺が描かれ、右側には「橋本」という有名料理屋。十間川に架かる太鼓橋は“又兵衛橋”とあり、料理屋の橋本の店主が橋本又兵衛であるので、橋の名前の由来だろうか。

そして、「江戸名所四十八景 廿三 柳しま妙見」(万延元年・1860、二代歌川広重画、版元:蔦屋吉蔵、小判錦絵)で、十間橋を手前に料理屋橋本や柳島一帯が描かれている。名所48景が描かれたシリーズもので、江戸土産として喜ばれた。

また、「江戸名所図会」巻之七(天保5〜6年・1834〜36頃、斎藤月岑他編、長谷川雪旦画、版元:須原屋茂兵衛、縦25.8×横18.1cm)で、柳島妙見堂として法性寺境内全体が描かれている。図には上部に川を十間川と記されているが、上部が北十間川の誤りで、下の流れが十間川。

さらに、「絵本江戸土産」初編(嘉永3年・1850、歌川広重画、版元:菊屋幸三郎、縦18.2×横12.3cm)で、下を流れる川が北十間川、右の木々の生い茂るところが柳島妙見。妙見菩薩は別名・北辰菩薩とも呼ばれ、北極星や北斗七星と関わりが深い。境内の松は、梢に北斗星が降臨する霊樹とされ、“影向松”と名付けられている。
tabashio(墨田区横川1-16-3)

次は、「箱入娘面屋人魚」(寛政3年・1791正月、版元:蔦屋重三郎、山東京伝作、3冊墨摺小本、各縦17.4×横12.7cm)で、一丁表には蔦重が裃姿で“まじめなる口上”を述べる絵が描かれている。
この口上の中にある“あしき評議”とは、寛政元年(1789)に刊行された黄表紙「黒白水鏡」の筆禍事件のことを指しており、京伝は戯作活動を続けない意向であったようだが、蔦重のたっての頼みで本作品を執筆したようである。

物語は、沖釣りを家業とする主人公が人魚を妻とし、その妻が吉原で人魚の見世物となるもの。当時人魚を見ると長生きが出来ると言い伝えがあり、その掲載場面は人魚の妻が身支度をしているシーンが描かれている。